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浅間社長のぼやきダイアリー

5月31日(火)
“勇知いも”が高級ブランドとして定着するにつれ、北海道内の農家から種いもの注文が来るようになったそうです。その種いもによって2〜3年は良い「じゃがいも」が収穫できます。その後、その種いもで出来た「じゃがいも」には”勇知いも”のブランド名つけて出荷させて欲しいとの要望がでたそうです。そこで若干の収入が得られるので欲に駆られて許可したのだそうです。それが大変な間違えで、土地や気候などの条件がそろって始めて良いいもが出来るのに、何の条件も無しに北海道全域から勇知いもが出荷されることになってしまいます。そのため勇知いもとして差別化されていた高級ブランドは普通の「じゃがいも」と同等に視られるようになり、高級ブランドとしての信用を徐々に失ってゆきます。ましてや高級ブランドでなくなった勇知いもに2〜3年でわざわざ種いもを取り寄せてまで栽培するところもなくなり、そのまま更に栽培を続けるためによる粗悪品の出荷で、勇知いもはまずいとのクレームがつき、それが評判となり、ついに売れなくなってしまったそうです。いわゆるブランド戦略の間違いによる衰退だそうです。

5月30日(月)

「じゃがいも」が地場産業として栄えたのは、当時、勇知農協が品種の改良を独自に進めて成功したからです。その独自に開発した「じゃがいも」が農林1号で”勇知いも”として出荷するようになりました。この勇知いもが、おいしいと評判になり、東京、大阪の高級ホテルから注文が殺到しました。そのおかげで食糧難の時代もひもじい思いもせずに生活できていました。食糧難の時代には「じゃがいも」を沢山食べすぎて見るのもいやだと云う人が結構いますが、私達は、このおいしい「じゃがいも」のお陰で今でも大好物です。

5月27日(金)

小中学生のころ勇知は「じゃがいも」(馬鈴薯)で栄えていました。秋に収穫された「じゃがいも」を土に埋めて保存し、春さきに出荷されます。秋には地場産業に協力するためとわれわれ生徒が「いも拾い」に動員されたものです。食糧難の時代でもあり、「じゃがいも」と「かぼちゃ」を主食にして育ちました。そのおかげで栄養失調にはなるほどの人はいませんでした。そして、手がかぼちゃのように黄色くなってしまった人が出るほど「かぼちゃ」も「じゃがいも」同様に良く食べていました。

5月26日(木)

T君のご好意により、奥さんが勇知いも(じゃがいも)を蒸かしてそれにバターをぬって食べる「バターじゃが」を準備して頂いて、早速懐かしく思いながら、ご馳走になりました。これは昔ばかりでなく今でも良く食べますが、やはり勇知いもは「ほくほく」としていてとても美味しい。妻(東京育ち)共々、何よりのご馳走とうれしくほお張りました。そこでこんな美味しい勇知いもが、なぜ衰退してしまったのかを伺いました。

5月25日(水)

T君の話によると今は、なんと小、中学校の合わせて40人弱の生徒数とのことです。そこまで過疎化、少子化が進んでいるのかと驚きました。われわれの時代の過疎地で2学級で一教室なんて当時も大変な過疎地であったのが、今はそれどころの話ではない。また、当時、夕方には子供の遊ぶ声が絶え間なく聞こえていたが、今はそのようなことは無いとのことである。その代わり、お祭りなどの家族参加型のイベントを出来る限り多く催しているそうです。

5月24日
(火)
当時、せっかく独立して在った、ひと山越して通った中学校も、先生のほとんどが高校を卒業したばかりの代用教員でした。高校を卒業して、直ぐに中学校の先生に良くなれたものと今でも感心する。その当然の結果して、2年のとき、英語の実力が下級生1年生より劣っていると、下級生担任の先生より、実例で示されたことがあった。当時、英語って簡単と思っていたのがこのように指摘され、私達にとってショックであったの覚えている。それでも当時それほど重大なこととは思ってはいなかったし、担任もそのままでした。そして、三年になったとき、ようやく短期大学の卒業の先生が来て新しく英語の担任となった。そこで、その遅れに驚きながらも3年生は3年生の教科書を終えなければならないということになり、いっぺんに3年生の教科書での授業となった。その結果、私にとっては一番基礎である中学一〜二年時の初歩英語がすっぽりと抜けた感じで、そのコンプレックスを今でも引きずっているのが現状です。

5月23日(月)

次にT君の案内で、小中学校を尋ねましたが、もちろん木造のわれわれの代の校舎はすでに無く、立派に建て替えられていました。われわれの時代は、生徒が一学級が30人弱でしたので、小学生時代は1年と2年、3年と4年、5年と6年が同じ教室で教わったのです。このような状況で、どのような授業が行われていたのかよく覚えていませんが先生も大変苦労されたことでしょう。それで、当時、中学生になっても小学生と同じ校舎ではかわいそうということで、生徒が少ないにもかかわらず、農家全体の生徒の通学を考えたのか、市街地から離れた辺ぴなところに中学校がありました。当時、雨の日も吹雪の日もひと山越えて中学校に通ったものです。その中学はずいぶん前に廃校となったそうです。

5月20日(金)

T君の案内で、当時三軒あった雑貨食品店も今は一軒のみとなり、その一軒も持ち主が農家の方に代替わりしているとのことでした。ただ懐かしい店の商標が残っていましたので理由を聞きますと、お酒を継続して扱うには前の商標も残す必要があるためとのことであった。そして、子供の頃お世話になった方で、今でも健在の方の家が二軒あること知り、案内して貰いお会いさせていただきました。当然、皆さん大変なお年よりになられていましたが私を覚えていられて感激しました。途中、同級生の家もあったが連休中で札幌の方に出かけているとのことでお会いできませんでした。

5月19日(木)

そして、さっそくT君が案内をしてくれることとなりました。当時、新築であった我が家も義理の兄の家も健在であった。当時、両親が建築をお願いした大工さんの腕が良いといっていた通りに、約40年の風雪に耐えて今まだ健在であることに驚きました。また、実家と義兄の家(今は札幌在住)がこんなに近かったのかと驚きました。当時、義兄の家に良く遊びに行き、姉が入れてくれるコーヒを飲みながら自慢の高級ステレオでクラッシクをよく聞かせて貰ったのを思い出します。そして、姉が得意としていたラーメンをご馳走になり家に戻ったものでした。その我が家に、現在住んでいる方はお年寄り夫婦で、家の補修はT君がボランテアで行っているとのことでした。

5月18日(水)

こっそりの訪問の積もりであったが、同級の友人(以下T君)が見覚えのある彼の家から出てきたので懐かしさのあまり声をかけました。T君とは社会人になってからもクラス会でたびたび会っているのでお互い直ぐに解りました。しかし約40年ぶりの帰郷でありT君も信じられないこととびっくりし、大歓迎をしてくれました。T君のお子さんは長女が京都大学卒、長男は医者になったと聞いていたので、自分も住んでいたこんな田舎からこのような優秀な人材がよくも生まれるものかと、大変な快挙であると思っていました。

5月13日(金)

もともと勇知は稚内市内であるが辺境の地で、過疎化が進んでいるのは予想出来たが、これほどとは思っていませんでした。その一方で、駅前には結構立派な新しい診療所が出来ており、前方右の我が家の在った場所の隣の旅館が新しい郵便局になっていて新旧交代が進んでいました。もし旅館が健在でありここで一泊できれば、故郷を心おきなく探索できるのにと残念思いました。

5月12日(木)

降りたって最初に感じたことは、周りが閑散としていて、見覚えのある真正面のお寺がやたらに近く小さく感じたことです。左側には鉄道官舎が約10世帯ほど住んでいた場所があったが、まったく無い。一軒の今にも倒れ掛そうなぼろ家が残されている。国鉄が民営化されて、その合理化によるばかりではないと思うが、この過疎化の現実を、目のあたりに見て唖然としました。

5月11日(水)
これから少しづつですが、ゴールデンウイークで故郷に帰省の際の感想を綴って見たいと思います。現在、実家は札幌市ですが小、中、高校時代を過した稚内市勇知を訪ねて見ました。当然過疎化が進んで無人駅となっていました。うわさには聞いてはいましたが使い古しの客車1台を駅として置いて有るだけでした。一抹の侘びしさを感じながら下車しました。誰もいない客車デッキの出入り口を通って「ただいま」と口ずさんで約40年ぶりの故郷に立ちました。(妻は狭い出入り口を使わないで、前を通っても同じなのに、何故か使ってしまうところが面白いと変なところで感心していました。)

5月9日(月)

今年のゴールデンウイークは長かったので、札幌の実家に帰省しました。その際、滝野すずらん橋丘陵公園に行きました。そこで鯉のぼりが泳いでいました。



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